木枯らし吹いて星降る夜の星明かり

こちらは畠神社の参道

エンヤ嬢は御来日されての紅白御出演ではなかったので御座ゐますね。
アイルランドのお城のサロンに女性だけの弦楽合奏団、それもティンパニーまでシンメトリーに一組配置しての「オリノコ・フロー」の演奏。勿論流された音の大半は予め録音されたものだらうけど、表情豊かに滑舌良くはきはきと演奏されるピチカートは見てゐて気持ち良いものだった。強制終了後の新曲「ありふれた奇跡」ことDREAMS ARE MORE PRECIOUS の方は、曲調が余りにも静かで、品の無い空騒ぎになって仕舞った此の番組には不似合ひだったかな。
それにしても、此のエンヤ嬢のパフォーマンス見たさに教育TVで同時にやってゐたベートーベンの第九と行ったり来たりを繰り返しつつも、紛ひなりにも最後まで紅白を見たのは約30年振りのことと我思ふ。司会も下手くそだし、矢鱈ワケのわからん人たちが仰山合間に出てくるし、随分ヘンテコな番組になっちまったのだねー、紅白は。
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相変はらず太陰暦モードでがんばってゐるので今天は師走の五日だが、世間様は待ってゐてくれない。困ったことに、我輩が春節を祝ふ頃には注連縄だの鏡餅だの屠蘇などは売ってゐないわけで、此の新暦の年末頃に一通り調達しておく必要がある。今年は何処の店を覗いても、何故か注連縄が矢鱈と高く、三社の大きめのが600円ほどもする。仕方なく唯一300円ほどのものを買って持ち帰ってきたのだが、よく見ると中国製でしかも材料は稲藁ではなく”まこも”と書いてあるではないか。一見するとラベルには県内の○○商会の名前が大きく書かれてあるのだが、其の脇の小さな字をよく読むと、正体がわかる巧みな表記法だ。さうか、いまどきは中国人が日本神道で用ふる注連縄なども作っておるのだな、と一瞬にして複雑な心境に。しかも稲藁でもないし・・・
それに今年は蘇民将来札も受けずに終はりさうだな。
(-_-;)
      
深夜、近くの古刹常光寺からは、人々に並び突く除夜の鐘の音がしきりに響いてくる。
紅白の終了を見届けてから、急ぎ身支度整へ寒空の下自転車でお出掛け。目的地は隣村の伊良湖神社。*1おおつごもりから宵越しに行はれる「ごせんたら祭り」*2の見学兼新暦初詣。隣村までは自転車で15分ほどの距離だが、我が集落の往還を抜けると其処は漆黒の闇の世界で、心細い前照灯に照らされた先が道なのか原野なのかはたまた田んぼなのかさへはっきりしない。今宵は無数に居並ぶ温室の灯火も何故か殆ど消灯されており、恰も原始的な闇が此の半島全体を覆ってゐるやうに感じるほど。木枯らしに逆らってぐいぐい進んで行くと、やうやう闇に慣れた雲間にはまさに満天星の冷たく煌めく星空が出現する。
時折天を仰ぎ、そしてまた行く先の家の灯りを見定め乍らの走行。神社には既に大勢の初詣客が参集してゐたが、参道脇の忌火屋では若者達が大きな囲炉裏を囲んで火打ち石で火を起こし、薪に火を付け炎を立てたり辻占のやうな仕草をしたあと、大仰な仕草で火を叩き消す。そして熾火から再び炎を再生させ、御幣をくべる。忌火屋の蔀戸からはまうまうと煙が立ち上り、息をするのもままならぬほど。そんな繰り返しをするうちに年が革まり、神主と村の惣代や肝煎り達が拝殿に参集し、大祓の儀式が開始される。途中忌火屋から小さな鉄灯籠に入れられた灯火が運び込まれて行ったが、どのやうに取り扱はれてゐるのかは不明。
現在の伊良湖神社は明治39年に射場拡張のため村ごと移転を余儀なくされた結果卜された谷間に鎮座するが、元は宮山と称する山の中腹にあった。本殿は西方即ち伊勢神宮を向いて建てられてゐるが、元来は伊勢神宮同様20年ごとの遷宮をおこなってゐたやうだ。山腹と言ふ地形的な制約から、本殿跡地と旧境内地は遷宮用に上下二段に造成されており、なかなか珍しいものであった。渡辺崋山も宮山の伊良湖神社を訪れ、村から神社に至る参道の様子や境内を絵日記で書き残してゐるが、矢張り旧地にありてこそ存在意義があるものと思ひ候。
社務所前で振る舞はれてゐる甘酒を頂戴し、本殿に参詣し、同時に真向かひにある伊勢神宮遙拝所に参拝。境内中央で祠に組まれた松の割り木の山に松明が到着し、火が移される。数十分もすると割り木の山が崩されて、酒に酔った若者たちが次々と割り木を蹴散らし、火の粉を撒き散らしていく。此の火の粉を浴びれば、本年は無病息災家内安全韋編三絶空前絶後。冷ゑきった体を温めやうと、本来はもっと薪の山に近付きたいのだが、村の荒くれ者どもが火の粉を撒き散らしてゐるためになかなか接近できない。結局、再度甘酒を頂戴し、御札を一体拝受し、星降る闇の中を再び疾走して帰宅せるらむよ。
    

  

  

  

  

  

  
忌火屋で再生を繰り返す火は生命の象徴だ。
火の粉を撒き散らして天を焦がす焚き火は、海上遙か神島や鳥羽辺りからも見ゑたことだらう。そしてまだ炎を上げた熾火の山を飛び越して身を清めるてう行事は極めて修験的な行為だが、偉大な伊勢に収斂される意味付けを差し引ゐても、此処には海人族の末裔である磯辺の漁民たちの素朴な祭りの痕跡を見つけることが出来る。
  

*1:古くは伊良久大明神とも称された。縁起によれば、貞観17年(874)の創建と言はれ、祭神は栲幡千々姫命で、伊勢神宮の神御衣神事のために祀られたものと考へられる。

*2:其の名の由来は、鰯を乾かして俵に詰めたもの(肥料)が五千俵、ごせんぴゃう、ごせんたはら、ごせんたらも多く出来ますやうにてう願ひが込められてゐると言ふ。極めて原始的な、漁民達の火祭りだ。