自然居士

何物がおわすや

自然とどのやうに対峙し、どのやうに自然を感得するかてうこと。
勿論、全ての基本は畏怖の念であり、人智の及ばざるものへの畏敬の念である。神仏の存在はそれらに付着した属性であるが、時を経てそのものの御正体に変貌を遂げていくものも多い。巨岩・怪石・岸壁・断崖・洞窟・川・泉・沢・滝・池・沼・巨木などの比較的小規模な構成要素の他、山塊自体や太陽・月・星辰のほか、自然環境に於ける見通し(景観)なども尊重される場合が多い。
いずれも、人間様の身近に在り乍らも、ヒトには動かし難ひ存在であり、厳然と秩序の如く存在するもの、そのやうな自然は宗教的指導者に因って感得され、体系付けられ、取り纏められていく。神社が嘗て社殿を持たず、自然物そのものを拝む為の境界を示す鳥居のみが目印であったやうに、人間様に出来ることと言へば其処が神域であることを示す結界を張ることのみであった。しかし、仏教の伝来と共に伝へられてきた仏像や建築物の物理的存在感は圧倒的であり、人々に自然物以上の驚嘆をもたらし、神々の座を狭めてしまったやうだ。
このやうな併呑過程と仏教、とりわけ密教的な教義が原始的な畏怖感覚に親近性を有することにいち早く気付いた「日知り(聖)」が居たのだらう。天台や真言のかむばせを仮借して、森羅を肯定し習合する教義を成立させ、修験として実践して行ったのだ。
深遠な真理や摂理は理解不能であっても、回峰行を実践することによってのみ得られる肉体的な充足感や霊感の感得、そんなことが人口に膾炙され、信者が行者を生み、また行者が信者を招き、山中に堂宇をもたらしていったのだらう。
(―_―)南無
        
今天は昨天と打って変はって北西風も収まり、日中は暖かささへ感じるほど。
何かをきっかけに、次々と我が身辺に集合しつつあるいにしへの焼き物などのひとつひとつを手にとってをしげしげと眺めては、其の由来や伝世の過程を思ふ。
今宵新月、冬・霜月の開始。