アンコールワットそばに博物館オープン、開館展は近郊で発掘の仏像274体 写真2枚 国際ニュース:AFPBB News

                       
かういふ報道の延長線上の裏舞台には、さまざまな有象無象が潜んでゐるもので、大半の人々は知らずに人生を虚しく過ごすワケだが、今回「風の旅人」の編集長の記述に表れた大新聞の大不遜ぶりも、恐ろしく堂に入ったものだ。
                  

                        
既存メディアに寄りかからないコミュニケーション

  今朝、上智大学に行き、相談を受けた。
 カンボジアアンコールワット遺跡の地中から出てきた膨大な数の仏像のことだ。
 <中略>(上記記事の引用)
 博物館のオープンを記念して、2007年12月に上智大学が中心となってシンポジウムを開くのだが、このことを多くの人に知っていただくために、発掘チームが某新聞社に相談にいった。すると、新聞での紹介やシンポジウムに新聞社が協賛する場合、2500万円〜3000万円を新聞社に支払わなければならないという話しになって、そんな大金がある筈がないということで、私のところに相談が来た。
 実は5年前、この仏像が発見されたばかりの時、シンポジウムを行い、新聞で紹介するという話しになったのだが、その時も新聞社から大金を要求されて、あるきっかけで私が相談を受け、あの手この手の方法で何とかシンポジウムの開催と新聞での紹介にこぎつけたことがあったのだ。
 あれから5年経って、ブロードバンド化が急速に進んでいるが、新聞社の体質はまったく変わっていない。自分たちの看板にあぐらをかいて、新聞で紹介して欲しければ金を出せというスタンスだ。しかも、信じられないほどの大金を。5年前の新聞での紹介にしても、記事の内容も写真も大したことがなく、何千万円もの価値はまったく感じられない。新聞を読む人は、新聞社が良心によって”文化”を伝えていると信じこまされているが、実際はそうではなく、彼らは大金を要求している。”企業協賛”というのは、一般の認識では協賛する側がお金を出すのだが、彼らは、”協賛”をブランドの暖簾代のように考えていて、お金を要求する。そもそも、新聞という知的権威と名声(実状はまったくそうでないと思うが)にすがりついて、みすみすお金を払う人が多く、その習慣が長く続いてきたことが問題なのだろう。もはやそういう時代ではない。新聞に出ること=素晴らしいこと、という構図は崩れてきている。新聞に出ていることだけで安心しても仕方が無く、そこに書かれている内容が大事なのだ。記事にしても、写真にしても、新聞を通して目が開かれるような経験は、私はまったくといっていいほど無い。
 だから、今回の相談を受けた際、新聞にたった一日掲載されるだけで数千万円も支払う馬鹿らしさを述べた。現地の博物館をつくるためにイオンが寄付した金額が1億3000万円で、その貴重なお金をなにゆえに新聞社に横取りされなければならないのか。寄付する企業もあるのに、新聞社は無償で紹介するどころか、お金を要求する。新聞は企業の問題をあれこれ好きなように書くけれど、現在社会において、人に知られないところで恐ろしく横暴なのは、新聞社なのではないかと思ったりする。
 インターネットの急速な普及で様々な問題も生じているけれど、それ以上に、新聞社など既得権益組の厚顔無恥なスタンスに憤りを感じる。
 私が制作する「風の旅人」は、制作代と経費、25,000部ほどの印刷代も含めて、一冊につき1000万円ほどのコストがかかる。それを実売とタイアップなどによって、なんとか収支トントンで続けている。
 それに比べて新聞は、文化紹介という装いながら、写真も情報も相手に用意させて、たった一頁のスペース売りで2400万円〜3000万円を要求する。
 今回、アンコールワットから日本の発掘チームが大量の仏像を発見したことは、色々な意味でとても重要なことなのだ。商品販売を目的とした企業広告ではないのだから、お金を取って誌面で紹介するような内容ではないと思う。
 5年前のように新聞社との間に入ることは、あまりにも馬鹿らしいので、今回は、自分が作っている「風の旅人」の誌面できっちりと紹介し(もちろん無償で)、書店流通以外の分から1000部ほど進呈し、シンポジウムで活用してもらうことを提案した。
 新聞は、大勢の社員を抱えているし、インターネットの普及で広告収入もどんどん減少するという逆風のなかにあるから、文化紹介であれ何であれ、お金になることを優先するのだろうが、そのようにしてスピリットを失っていく。スピリットを失った媒体は、一歩間違えば簡単に権力の手先になる可能性もある。すでに媒体そのものが権力化して、自分たちの流儀を強引に押しつけている。
 新聞を敵にまわして何も得することがないという判断で、こうした問題があっても、当事者たちは仲間内で新聞社の悪口を言っても、外に向けては黙っていることが多い。新聞に攻撃されるのも、無視されるのも厭だ、仲良くしておきたい、という心理がどこかに働いてしまうのだ。何かの時に取り上げてもらえるかもしれないし・・・というセコイ気持ちで。テレビにしても同じで、以前、国東半島の祭りの時のテレビ局の横暴を書いたけれど、メディアの権威の前にへりくだってしまう私たちの心理に新聞やテレビはつけ込んでいる。
 そうした状態から脱するために、既存メディアに寄りかからない方法を自分なりに構築していく努力が大事なのだろうと思う。
                            
         「風の旅人 編集便り 〜放浪のすすめ〜」7月5日の記事からの引用                  

         
ポル・ポト派との内戦末期のカンボジア、ほぼ無人のアンコール遺跡群にでかけたのは、香港返還と同じ年のこと。後に大量の仏像が発見されることになる寺院遺跡にも、2度ほどでかけてゐる。時折遠くから、銃声のやうな、地雷の爆発するやうな、何とももの悲しい爆発音が鳴り響く密林。シェムリアプにはたった2週間ほどの滞在だったが、シアヌーク国王(当時)の北京からの仰々しいお国入りや、粛々と進められる各国の遺跡復元事業、観光客のいないゲストハウスや遺跡の様子など、普段とは違った何か恐ろしくも美しい風土の醸し出す瘴気をも感じることができたことは、今から思へば貴重な体験だ。            
さておき、引用ばかりで能がないが、新聞にせよテレビにせよ、所謂報道関係者には実に無礼不遜な輩が多い。
数年前、或る講演会で途中から会場を暗くしてスライドの上映が始まった。恐らく開始に遅れて到着したテレビの取材クルー、記者1名にカメラマン1名とアルバイトらしいアシスタントの3名様ご一行、いちばん観客密度の高い座席周辺から舞台を撮影するにあたり、助手が手にしたライトを点灯するではないか。当然スクリーンに映し出された画像は薄れ、見にくくなってしまったが、数人が眉間にしわを寄せて睨んだくらいで、聴講生たちから積極的な抗議はなされなかった。
矢張り数年前、或る遺跡の説明会で大勢の市民相手にお話をする立場になり、役所的な挨拶を済ませてお話を開始した。見学する場所が数カ所に分散してゐたため、その都度数十人の人たちを誘導し、安全を確認したあとでハンドマイクを使ってお話をするワケだが、次のポイントに移動を開始した途端、大新聞支社の記者から声ががかった。「今の地点で写真を撮りたいので、まう一度解説するポーズをしていただけませんか」と。中年の記者だったが、慇懃無礼とはまさにこのこと。この先も数カ所解説する場面があると思ふので、そちらで撮影していただきたい旨告げて、移動。その時は他社の記者も来てゐたが、或る社は現場を周遊しての解説が終わったあとでやってきて、市民に配った資料のなかで、いちばん重要な部分を教へて欲しいと宣ふ。また或る社の記者は黒塗りのハイヤーで、来客用に仕立てた駐車場を無視して事務所前に乗り付けて来た。
これらはたまたまの偶然、無礼な担当者が集合してしまったワケでは決して無く、常なることなのだ。我輩はもとより無礼な輩の取材には応じないことにしてゐるが、役場の担当者はさうはいかず、いちいち対応を余儀なくされてゐる様子が哀れだ。
テレビでもよく見る情景。地方の古刹などの紹介で、本来は十年に一度しか開帳されないはずの秘仏が、「今日は此の番組の為特別に見せていただけることに・・・」云々。たかがテレビ番組が、何様ぞ。
不遜な者どもとしての記者達の大集合体が、日々吐出する排泄物が媒体だとすれば、其の媒体の発する腐臭も可成りの確率で不遜なはずだ。そんな気はしないか? 既に不遜さに慣れきってしまひ、何の欠片も感じない??
この種の実例は枚挙に暇がないが、こんな不遜な者どもがそれこそ、我が物顔に跋扈してゐる状況は、誠に理不尽でおかしなことなのだよ。人々よ、テレビ様か新聞様には無闇に楯突く事も無いが、同時に無闇に頭を下げる必要も無いのだよ。
さういふことを、肝に銘じておきなさい。
(−_−)ホント!