鈍感なるは御前様ぞ

たゆたひ、うねる

漫然とテレビを見てゐたら、何処かの漁師がぶつぶつとぼやく。「魚が捕れんやうになった」とぞ。
其れを見て、我輩が呟く。「夫れではお前様、いままで如何ほど魚資源を育てて来たのか」と。
確かに一理あるな、或る農民のコトバ。コメにせよ野菜にせよ、我々はまがいなりにも土を耕し消毒*1し施肥し、収穫に至る。しかし漁師はだうだ。海に落ちてゐるものを拾ったり掬ったりしてくるだけではないか、と。
我輩も自分で魚を釣るワケではないので、漁師様方の活動の恩恵に浴してはゐるのだが、事実として「魚が捕れん」「魚がおらん」と嘆く一方で、家ではじゃんじゃんと盛大に各種洗剤を使用して海洋環境の悪化に貢献的な生活をしてゐる漁民を何人も知ってゐる。
確かに、漁業は日本文化の基底にあって重要な要素であるし、人間様と魚様との数万年数千年にわたる知恵比べの果てに会得確立された伝統的技術の賜物である。例へ一網打尽的漁法にせよ違法操業にせよ、愚かな人間様が欲するが故の漁労であるとするならば、誰もそのことを非難できる立場には無いのかもしれないが、それでは漁業資源の枯渇を嘆く漁師たちがいったいどのやうな対策を講じてゐるのかといへば、甚だ疑問も多い。
或る島ではいまだに下水は海に垂れ流しに近い状態なのだが、それでは台所用洗剤や風呂場で用ひられる洗剤として生分解性の良いものが積極的に使用されてゐるのかと言へばさうではない。さすがに昭和の或る時期のやうに、河川への排水溝がぶくぶくと不気味に泡だってぷかぷかと魚が死んでゐるといった情景こそ見られないものの、陸生の農民たちに比べてより海洋性の高い漁民たちの方が環境に対して鈍感なまま生活してゐるやうな気がするのは我輩の気のせいだらうか。
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数年前にテレビで見た例は、東北地方だったか何処かで、漁師たちが山に木を植ゑる運動を開始した*2てう報道。成る程、豊かな海の栄養の多くは森に由来するワケで、豊かな森のある海辺にはプランクトンが湧き、結果的にさまざまな魚たちが寄り付くてう仕組み。人間様の視野では一度に見ることの出来無い時空的広がりを持った循環なのだが、いろいろ考へた結果、此処に至るてう気持ちはよく理解することが出来る。
漁師が山に木を植ゑる時代、農民は何処をだうすればよいのか?
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*1:まったく誤解の多いイヤな表現だ。「消毒」の実態は、殺虫殺菌であり、「毒」即ち害虫ばかりではなく、時には益虫益鳥までも駆逐してしまふ。毒を消すはずの「消毒」そのものが、「毒」なのだ。

*2:確か「魚の森」てう名前だったか、子供たちと木を植ゑてゐた。