日記てうもの

あおもみじのさわやかさ

先週或る友人に、「日記にしては長いし、日記にしては内容が妙だ」てう指摘を受けたのだが、いらんことであるし、そもそもこの手の指摘は各方面から二度や三度の事ではないので今では平気の平左なのだが、このところちょこっと意図的に短くしてみたり削ってみたりと、それはそれは、只でさへワケの分からぬ内容が更に意味不明となり、書き手である自分のみの自己完結世界がより閉鎖的狭小的に萎縮して行くやうで、余り心地良いものではないな。
此の↑の文章だって意味無く矢鱈長いので、表現を推敲すれば三分割ほどは出来やうが、それがだうした。日記てう語彙を契機に、突如脳裏に浮かぶ土佐日記の冒頭句だが、改めて斯くの如し。
          

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。それの年のしはすの二十日あまり一日の戌の時に門出す。そのよしいさゝかものにかきつく。ある人縣の四年五年はてゝ例のことゞも皆しをへて、解由など取りて住むたちより出でゝ船に乘るべき所へわたる。かれこれ知る知らぬおくりす。年ごろよ具しつる人々なむわかれ難く思ひてその日頻にとかくしつゝのゝしるうちに夜更けぬ。
      

       
紀貫之に女装趣味が有ったのかだうかは不明だが、わざわざ女の作者を装ひ現実の日記をしたためる理由は謎だ。此の本文を品詞分解させられて読み下しをさせられたのは高校生の時だったらうかしらむ。「男モスなる」とハンバーガーの事など脳裏に閃くもまたをかし。
(−_−)?
       
この週末の両日で、いったい何時間眠ったのかは計算できぬことなれど、厚手のカーテンの原理を逆手に使ひ、普段の2倍以上の睡眠時間を貪ったものと察しまする。
今天は公安の追尾から逃れる為、招待所から一歩も外に出ないと決心したため、一時はベランダに置かれた洗濯機の使用さへ中止せむと思った事もあったものの、矢張り片付けておきたい洗濯物も有った為、例外的措置としてベランダには何度か出る結果となった。隣の高層マンションから監視されてゐたことは間違ひ無いが、それがだうした。
食料品の備蓄は十分有った為、食事は随時可能であったし、いつもは消音モードで点けっぱなしのTVを見てみたり、たまってゐた文書やメールの処理をしてみたり、マパム・ユムツォでの時間を回顧してみたり、引き散らかった部屋の中を片付けてみたり、ゴミの分別をしてみたり、書籍の山を突き崩してみたり、時折レーダー解析図で雨雲の行方を覗いてみたり、気温20度の屋外工作に対応可能な服装を考へてみたり、それぞれをどのやうな順序と秩序で行ったかはいらんことである。
(−_−)見たい映画が何本か有るが・・・
           
夜は夜で『風林火山』など眺めては諏訪様の行く末を案じてみたり、N響アワーちょこっと覗いてみたりとイロイロ。
それにしても ANDREAS STAIR & CHRISTINE SCHORNSHEIM による fortepiano の演奏による Mozart 、いろんな意味で凄いです。
         

モーツァルト:am Stei

モーツァルト:am Stei

       
さすが harmonia mundi の企画、此れが Mozart かしらむと怪しむほどの迫力ある演奏で、ちょっと目が覚めました。
                
しかしまた数時間後に眠りますが、なにか?(−_−)?