師走十六夜

沖積低地?

名古屋大学へ。
おっとその前に、軽バンをスバルの総本山に入庫し、修理を依頼。先般よりオイル漏れがちょっと気になっておりまして、エンジンの何処かからの。取り敢へずガスケットのロッカカバーパッキンと、ドレンガスケットのシールOリングを交換してみることにしたワケだ。
ホントは夕方までに仕上がって仕舞ふのだが、大名古屋大学での行事に夕方まで御出席の為、明天の引き取りに変更と相成り候。因って総本山からはとぼとぼと、大橋小橋渡り歩きバス停まで。超低床バスから地下鉄に乗り換へて約20分、大学構内を当てずっぱうに歩き回った御陰様で迷ひ子と化した15分、イントロダクション分遅れて会場に到着。
今回のテーマは「弥生農耕と沖積低地の地形変化」であったが、馴染みの顔も多く、また同時に見知らぬ聴講生も多い。沖積低地の地形変化や田畑の景観と開発の変遷。出土した農機具にみる弥生農耕や、伊勢湾西岸・静岡清水平野の遺跡の変遷から推定される弥生農耕。それと発表者諸氏による討論など。
地理学者と考古学者の学問的な接点は無数に有るが、話が具体化すればするほど詳細微小な方面に言及せざるを得ない考古学と、常に人間様の時間的単位から遊離した巨視的且つダイナミックなスケールに収斂されて行く地理学のベクトルの違ひはなかなか融合しないが、極大が極小に連なって行くフラクタルな思考と指向で対応して行けば、学際的な研究は可能かと。
しかし地理学方面では、ごく当然のこととして3D情報が多用使用されており、無理矢理2次元に押し込めて表現する描写技法も古典的乍らさまざまに工夫され、既に確立されてゐるのだ。天文学も然り。でも紙に印刷された星図で表現出来る情報はかなり限定されたものであるだけに、天文学者にとってみれば忸怩たるものがあるだらうね。
それにしても嗚呼、考古学者たちよ・・・
     
(−_−)
     
今夕は珍しく時間があったため、週末の都会の夜をあてどなく彷徨する。
街の表情は勿論、その地区地区で様々であるが、真冬とはとても思はれない、底冷ゑ無き師走の十六夜月の光に誘はれてか、街角に人の姿矢鱈多く、繁華街の光も目映ひ。昔に比べて街の夜景に間接照明が増えたこともあってか、冷たく落ち着いた感じの無機質感が強調されて、どことなく悲しき街角のサンチマンタリズムも付着する余地が無い。
部分的には恐らく年中、街路樹に白や青の細かなLEDが枝の果てまで絡み付けられてゐて、風に揺られて枝の間に間に恰も瞬くやうに儚く光る。街路灯も水銀灯のためか、昼光色の冷たい光色だが、唯一テレビ塔だけは電球色のやうな橙色のやうな、暖かな光に包まれて立ち尽くしてゐた。
歩きついでに TOWER RECORD へ。いやはや、David Gilmour の On An Ireland など見つけてしまったから気になって仕方がない。
     

    
まったくもって罪なアルバムだ。出色は第6曲、This Heaven . このブルージーな曲に乗れない人は、そもそもこんなアルバムなど買はないだらうが、後半こんなに美しい曲ばかりでよいのでせうか、ギルモアさんよ。
      
それとまう一枚は Henry Purcell の Instrumental Music
King Arthur / Fairy Queen

King Arthur / Fairy Queen


冒頭第1曲目、即ち The Fairy Qeen の Prelude in g, Hornpipe in g の息詰るやうな迫力には驚くばかり。もとより楽曲のポリフォニックな展開には作曲家の持てる力の全てが注ぎ込まれてゐるやうに感じられるのだが、このフライブルグ・バロックオーケストラのアンサンブルも相当な技術と統合力だ。嵐の如く押し寄せる主旋律と内声部の駆け引き。そして低音部の、独自の意志を持った動物のやうな気忙しい動きが加わって、下降と上昇を繰り返し、そして第2曲の Air in B, Rondeau in B の弾むやうな三拍子に繋がって行くその展開は見事の一言。
此の他にも懐かしい脱力系 TOM TOM CLUB のアルバムや、JAM のベスト盤CDも見つけてしまったけど、これらは次回までお預けにて候。
取り敢へずリストアップだけはしておかう・・・
     
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