主客交替

林檎の気持ちはあのねのね?

目的が手段に、手段が目的に?
自分の個性がさまざまなブランドや商品を選び出してゐるのか、それとも無意識のうちに企業の戦略に乗せられてしまっていただけのことなのか?
例へば Aplle の製品群。どれも洗練されて個性的で、感性に訴へる「何か」を秘めてゐる。自分の生活の中に其の製品を取り込むことに因って、 quality-of-life のポテンシャルが上がったやうに実感したり、実際にさまざまな不便さが解消されたり望みが叶ったり、有形無形の満足感が得られたりするワケだが、知らないうちに Aplle が提案し提供する life style が自分のオリジナルなものであると錯覚するに至ることも起こりうるのだ*1
さういふ意味では無印良品などは、なかなか心理的な商法だ。先づその名前が「無印」ブランドてう入れ子の構造になってゐること。ムダを排除したやうなその商品デザインやコンセプトが個性的であったことは認めやう。しかし今や MUJI は立派なブランドであり、さまざまな種類の商品によって我々の生活の隅々に介在しやうと目論んでゐる様子。ブランド嫌いの人々や、「ブランドブランドしていないブランド」好みの人たちには大変支持されてゐるブランドだ。さう言へば、ユニクロだって似た雰囲気の戦略で我々の生活に浸透しやうとしてゐると思ふが・・・
勿論、企業がビジネスとして商品を提供する場合の目標は利潤の追求だから、販売手段としてはさまざまな心理的作戦を仕掛けてくることは当たり前のことだ。しかし、それらを自分用に選定し、実際に購入するのが個人であるとすれば、初期の選択権は先づ消費者に有ったはず。
いまひとつの例。平凡な日常生活で発生するさまざまな不便さなどを解消せむと、せっせとホームセンターに通ひ続けた結果、いつのまにか身の回りはホームセンターの提供する安っぽく珍怪なモノどもで溢れ返り、無粋極まりないものに変容してきてしまうこと*2。これなどは今やどの家庭でもフツーに見られる現象だ。
個性を顕示する為?にブランド品を漁り選ぶあまり、気がつけばブランドものに併呑され、その他大勢と何ら変はりない凡なるものに落ち着いてしまう皮肉。個性が商品を選ぶのか、商品が消費者を選ぶのか、いまやその主客は逆転しつつあることだけは確かだらう。
ひょっとして主客交替は今や暗黙の了解事項?
     
        
人間発電所 (CCCD)

*1:窓式OSの更新時期を狙って?このところ窓式との違ひを殊更強調したTVCMが目立つ。

*2:100円ショップに置き換へて考へてもいい。人々が便利さや安さを優先した結果、その店内は限りなく刹那的で品無く安っぽい色彩に溢れてゐるではないか。