だんだん

現代遺跡?

備忘録
ダンダンウイリク=丹丹烏里克(象牙の家)遺跡は北緯37度46分、東経81度04分周辺に位置する。そこはタクラマカン沙漠の中南部、南に遙か7000m級の崑崙山脈を望む荒涼不毛の地にある。
沙漠と聞くと暑さのイメージが先行し、標高を意識することは余り無いが、ダンダンウイリクは1250mの高地に在るのだ。嘗て河西回廊からトルファンを経てウルムチに達し、天山南路を這ってカシュガルまで西行し、タクラマカン南端を東に折り返して現代的西域南道を利用してホータン、ニヤ*1チェルチェン、チャルクリクを目指したことがあったが、ホータンより先は当時外国人未開放地域であり、公安に申請を行ったものの却下された。それでも違法を承知の上、解放軍に物資を運搬するトラックの運ちゃんに直接交渉して于田に至り、そこからはローカルバスで人民に紛れて民豊(ニヤ)に達した。しかし、肝心のニヤ遺跡と信じてゐた場所(町の郊外、10キロほどのところにあった)は、其ノ後の調査で違ふことが判明し、拾ってきた陶片などを眺めてはがっかりしたものだ。実際のニヤ遺跡は民豊の北100キロの沙漠の中。近年では日本の仏教大学が合同発掘調査を行ってゐたらしい。
さて、ダンダンウイリクの方は策勒(ツァラ)県から北へ約90キロ沙漠の中。于田からケリヤ川沿ひに北上してから西行する方法も有るやうだが、いずれも道無き道を行く難路であることに変はりはない。
ダンダンウイリク遺跡は1896年にスウェーデンの地理学者であり探検家でもあったスヴェン・ヘディンに因って発見された。数年を待たずにこの情報が欧州にもたらされ、それに触発されて1900年に同遺跡に到達したのが、探検家オーレル・スタインだ。彼はかなり大規模な発掘を行ひ、所謂「蚕種西漸伝説」を描ゐた板絵など、大量の文物をイギリス(帰化先)に持ち帰ったのだが、半ば伝説か伝聞または創作と思はれてゐた玄奘三蔵の「大唐西域記」の記述内容が確認されたのであった。スタインはダンダンウイリクから更に東行し、翌年ニヤ遺跡を発見。これまた大量の文物を収集したのだが、後にその謎の存在が明らかになるカローシュティー文書を筆頭に、超級貴重な資料がかなり含まれてゐたやうだ。
1905年にはメリケン国ハンティントンが、1928年にはスイスの植物学者ボスハードが現地を踏査し*2、以来約半世紀もの間、ダンダンウイリクはその所在がわからなくなってゐたらしいのだが、いみじくも我輩の踏査同年同時期に、新彊文物考古研究所調査隊が再発見し*3、正確な位置を確認し、GPS数値で記録。猶、前述のスタインの探検報告書*4が、我が邦の大谷探検隊派遣の重要な契機になったことは、間違ひ無い。
仏教大学を中心とする日中合作ダンダンウイリク遺跡学術研究プロジェクトは2002年から開始され、昨年はNHK取材班も同行し、先日放送された電視節目「新絲綢之路」として発表されたのだ。

西域記―玄奘三蔵の旅 (地球人ライブラリー)

*1:西域36国のなかの一つ、精絶国

*2:自分の踏査した証拠に、自身の名刺や当時の新聞を埋めておいたやうだ。それらは2002年に発見された

*3:肖小勇「探索沙漠遺蹟丹丹烏里克」『新彊文物』1997年第4期、新彊文物考古研究所 1998

*4:M.Aurel Stein,"Ancient Khotan",Oxford University,1907