1888年の或る夜

九段界隈

最終日間近の大混雑大覚悟大承知之上で出かけた東京国立近代美術館、地下鉄の竹橋駅を降りた時点から既にただならぬ人混みと雰囲気。おばさまを中心とした年輩者が圧倒的に多いが、若いカップルや学生たちの姿もある。両側のホームが人間で溢れ、一方向に向かってゐる。お目当ては勿論ゴッホだ。
クレラー=ミュラー美術館所蔵の珠玉の1点である「夜のカフェテラス」、我輩はそれが見たいが為に龍馬精神でやってきたのだ。会期終了前日の土曜日、予想を超へた人出に手をこまねいてゐる余裕は無い。なぜならば、入場券を持たぬ我輩は、入場を待つ列とは別方向の当日券窓口に並ばねばならないのだ。既にそちらもうねうねと行列が出来ており、朝にしては強い日差しにたちまち汗が滲む。そんな行列に並び始めて15分ほど経っただらうか、後ろから偉人の肩を優しく叩く者有り。振り向けば小柄な若いマダムが立ってゐる。曰く、「あのー、失礼ですがお一人ですか?」「はい」、聞けばこのゴッホ展にご主人と小学生の息子さんとで来るつもりだったのだが、今朝になって急に二人が「暑さうなので行きたくない」と言ひ出したので、3人分の前売り券携へて一人で来たの由。当日券窓口に並んだ人々の中で、恐らく一人だらうと思はれる我輩に声かけて券を差し上げやうと思はれたてうこと。この上無き有り難きお申し出を素直に受容し、行列を離れて入り口に向かふ別の行列へ。初夏の大江戸御城下で、希有なる親切多謝感謝。
人混み越しの「夜のカフェテラス」、蒼く暗く、冷たく輝く満天の星空の下、黄金色の光の繭に包まれたカフェの温もりと寂しさよ。
花のほかには松ばかり、
花のほかには松ばかり・・・