モノ派?ヒト派?

無数の何かが・・・

自然科学分野の進歩により、年代測定の精度も飛躍的に高まってきた。考古学者によって積み重ねられてきた情報の蓄積を科学的データが補強し、研究成果に奥行きがもたらされてきたような気がする。
考古学とは本来文化人類学的学問分野の重要な一部門であり、元来民族学民俗学ばかりならず、科学的分野とも密接に関連した分野であるべきなのだ。もし学際的構造を持たない考古学というものがあるとすれば、それは単なるモノ学であり、社会にその成果が還元されにくい狭小な学問になってしまうことだろう。事実、戦後驚異的な速度で深化した日本の考古学の或る部分は行く先を喪失し、モノ論や軽薄な結論に帰結し、萎縮してしまったようだ。
モノ派にも言い分はあろうものの、機能ばかりではなく、そのモノが存在する背景に潜む人間の心理や情緒、社会的背景や自然環境などの諸要素に対する考察を欠いた研究は、我々に何を還元してくれるのだろうか。
即ち、縄文時代の竪穴住居の中心近く、赤々と燃える炉端に据え置かれた石棒に込められた人々の願いを知らずに、その場で使われた土器を語ることは虚しいことではないのか?
今自分の居る居住空間の2千年後を想像してみたまえ。机の上に置かれた1本のボールペンから、その使用者である僕のことがどれほど理解されるのだろうか。一つのモノが語る歴史は浅くとも、机上のすべてのモノの組み合わせはその瞬間に地球上で僕のもの以外には無いわけだから、推測される事も多々あろう。
残るは学者の資質?霊感?