出入平安の譬へ

舊暦十月十九日の冩眞家 who came back from Kenya

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

takeshi kuno

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
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「未だ興奮冷めやらぬ・・・」とはまさにこのことかと。
昨夜のクラシック音樂館、海外のオーケストラシリーズ最終回は・・・

 
11月29日(日)放送
<ハンヌ・リントゥ指揮 フィンランド放送交響楽団演奏会>

北欧フィンランドを代表するオーケストラ、フィンランド放送交響楽団。これまでにパーヴォ・ベルグルンド、オッコ・カム、レイフ・セーゲルスタム、ユッカ・ペッカ・サラステサカリ・オラモといったフィンランド出身の世界的マエストロが首席指揮者を務めてきました。
今回の来日公演では、現在の首席指揮者であるハンヌ・リントゥとともに、祖国の誇る大作曲家で今年生誕150年を迎えたシベリウスの代表作を演奏します。

1.交響詩フィンランディア」作品26(シベリウス
2.バイオリン協奏曲 ニ短調 作品47(シベリウス
3.交響曲 第2番 ニ長調 作品43(シベリウス

管弦楽:フィンランド放送交響楽団
バイオリン:諏訪内 晶子
指 揮:ハンヌ・リントゥ
(2015年11月4日 サントリーホール
 

未知なるオーケストラであったフィンランド放送交響樂團も素晴らしかったし、これまた我が未知なる指揮者であったハンヌ・リントゥの指揮も素晴らしかった。そして何よりも、諏訪内晶子の素晴らしさといったらまさに神様級てうか女神様級か何と言ふべきか、音樂神に確實的に祝福された演奏であったことは間違ひ無い。
 此の言はば天國的な素晴らしさを齎したものは何か。交響樂團の實力? 指揮者の統率力? ホールと聴衆の造り出した雰囲氣? 否、諏訪内晶子の存在の氣高さとオーケストラの包容力とそして指揮者の吸引力? 否 悔しいが今回はどのやうにコトバを連ねても、あの演奏の形容は不可能であることを素直に認め、ただ讃辞を贈りたい。
 だが矢張り少しだけ具體的に書いておかう。1曲目の「フィンランディア」については、察するに祖國の偉大すぎる作曲家の有名すぎる作品てうことで、海外遠征時には演奏を必須余儀なくされてゐることだらうが、倦むことなく實に真面目に生き生きとのびのびとした演奏に先づ壓倒されて仕舞った。微妙な強弱は勿論、聴き慣れた演奏家のものとはどの部分も違ったが、其れは即ち風水風土の違ひに因る氣質の違ひだの呼吸方法の違ひだの思考方法の違ひに因るものであり、言ふなれば我々聴衆は其の違ひと同様を實體験する為に演奏會場を訪れるわけだから当然のことだ。兎に角勇壮且つ雄大で爽やかな演奏であった。
 続くヴァイオリンコンチェルトについて、今更何を語ればよいのかは諸君も推して知るべし。無駄、さうなのだ、コトバはムダなることを知って仕舞った以上、何をや言はむ。それでも敢へて、ただ一箇所のみ挙げよ!と言ふならば、我輩は迷はず此処を挙げやう。

情緒と情念に満ちた第一樂章が終はり、静謐の第二楽章へ。時は移ろひ、懐かしき時への回想と独り言の如き呟きが如き音形が・・・ 20小節目に出現するごく短いパッセージ(樂譜の着色部分)、同じ音形が2回繰り返されて、そして3回目ではしっかりと目をつむり今までの時を懐古するが如き静けさに溶け込んでいく情景。とりわけ彼女の奏でる、此の二回目の哀愁の情の籠もった嘆息に、期せずして涙する自分に驚く始末。*1
 とまれ怒濤の第三樂章でのヴァイオリンソロは、いくら低音弦からの弾き始めとは言へ、チェロの如き骨太の音色に驚かされる。此のあとは、、、何と言えばわからんけど、第二樂章の不意の涙が乾き切るほどの躍動感と迫力で御座ゐました。予想してゐた透明感は寧ろ下位のレイヤーであって、地表に分厚く堆積した腐葉土の如き豊富な栄養内容を持った演奏であった。
 交響曲第2番に関しては、冗長になるので敢へて省略させて頂きますが、オーケストラと指揮者の一體感や重厚さなどなど、總合的に見ても歴代五本の指に入る名演で御座ゐましたとさ。*2
 テレビ放送の演奏會でこれほど感動することがあるのですね。
 我乍らびっくりポンで御座ゐましたとさ (-。-;)
 

*1:樂譜通りに解釈すれば、確かに二回目のフレーズはリフレインであり一回目の呼應でもあるので音量は小さくても良いのだらうが、そこに込められた情感の量は寧ろ二回目の方が多くても良いわけで、實際にさうなってゐた。

*2:指揮者のハンヌ・リントゥも言ってゐたが、何故日本では交響曲第二番がいちばん人氣があるのだらうか。それはいみじくも指揮者が指摘してゐたこの曲の構成が、ベートーヴェンの第5交響曲第3樂章から第4樂章に途切れること無く繋がったまま盛り上げて行く方法、即ち、軽快軽妙なるスケルツォからフィナーレへの高揚感と勝利へのパターンが日本人に好まれるからではないかとも思ふ。勿論其れは、第9番に於ける苦悩の時を経て歓喜の歌へと至る構成に例へても良いが、交響曲の規模から言って第5番に例へた方が妥當だらうな。