ひいなの節句に思ふこと


 
 

 
 

 
 

 
NZの大地震に遭難した人々は不幸としか言ひやうが無いが、それが其の人たちの運命だったのだらう。
運命とはさういふものなのだ。
阪神淡路大震災の時もさうだったし、原因はまったく違ふが9.11の時もさうだった。大けがを負ひ乍ら崩壊した瓦礫の隙間で命拾ひしても、じわじわと迫る炎によって生きたまま焼かれていく悲劇。まさに、生き地獄とは此のことだ。
それにしても今回崩壊した語学学校の入ったビル。周囲の建築物に比べて、余りにも崩落の度合いが激しすぎる。大聖堂でさへ尖塔の下半は残ってゐるてうに、重機で持ち上げやうとしても鉄筋コンクリートが粉々に砕けてしまひ、うまく除去できない様子が何度も映し出されてゐた。
これはよほど悪質なコンクリートが使はれてゐたからか、昨年発生した地震によって基本的な構造部分が修復不可能なまでに劣化してゐたかどちらかに相違無い。既に建築物としての構造的な欠陥も指摘されてゐるが、エレベーターホール部分だけを残してあれほど徹底的に崩落するには、何らかの原因が指摘されなければならないだらう。
日本から派遣された救援隊の、不眠不休の活動には心から敬意を表したい。時折彼らの作業の様子が報道番組で流されるが、瓦礫の隙間で篩などを使って何かをより分けてゐる様子を見ると、既に殆どの人体は火災の高熱によって断片化してしまってゐたのだらう。
だから、家族や友人の提供するやうな情報、例へば外見的な身体的特徴や衣服の様子などが寄せられても、当局は困惑せざるを得ない状況にあることを察するべきである。
とまれ、瓦礫で破砕された上に火災の炎で焼かれてしまった骨片から個人を特定する方法はいくつかあるのだらうが、いずれにせよ関係者にとっては厳しすぎる現実だ。

しかしこれこそが、其の人たちの運命そのものであったことを、先づ肯定しなければいけない。
そして我々は日常に於いて常に、死を想ひ、死を思ふべきなのである。
 
 

メメント・モリ

メメント・モリ