音の大小と長短と軽重と厚薄について


教えて、DJ!
 
久しぶりに超級家電量販店に出掛け、様々な電化製品を見歩く。
勿論、林檎式電脳や所謂「 i 」モノのチェックを中心に、主に音響製品関係に触れて歩き回ったのだが、あらためてiMac27inchの画面の巨大さに驚いたり、新型iPod nanoの小ささに感心してみたりと、原始人的反応には枚挙に暇がない。
音響製品の展示場では、真空管アンプやタンノイなどの前時代的スピーカーも鳴らされてゐて、たまたまかかってゐたノラ・ジョーンズの新譜のどこまでもナマっぽい音色と音場の広がりに包み込まれ、ふとレコード時代の暖かな雰囲気を回顧したりする自分の存在に気付くのだった。
その流れでBOSEのコーナーに至り、大小いくつかの製品を聞き比べたりしてゐるうち、ふと気になったこと少し。
近年BOSEの製品には、iPod専用の再生機能やUSB端子によって電脳直結で利用できるものも見られるやうになってきた。展示棚は実際に客が所有するiPodを繋ぎ、其の場で製品の音質を試すことが出来る仕組みになってゐたので、我輩も早速接続を試み、ちゃうど聴いてゐたマーラー交響曲第4番などを流してみた。
確かに、どのやうな新奇工夫かはよーわからんが、BOSEの製品は小型な外観からは想像できないほどの重低音も鳴り響くやうに出来てゐて、驚くことしばしある。しかし、そもそもアナログレコードに記録された音を100としたら、CD化の段階で既に90だの80だの、ものによっては116だの125だのと、デジタル的に四捨五入偏倚を以て記録されるわけだが、小型携帯音楽再生装置での主流であるMP3変換された音をいくら忠実に再現してみても、其の場合いったい元の音源の何を聴いてゐることになるのだらうか? 真の音源との有機的な関連性を断言するには、甚だ疑問が残る。
このやうに昨今電脳系再生装置での音楽再生に慣れて(慣らされて)しまった耳ではあるが、やはりせめてそれなりの再生装置でそれなりの音量でヘッドフォンなど使はずにCDを聴きたいものだし、条件さへ許せば時には生を聴いておかないと確実に耳は退化していくに相違無い。野性の音は我々の居住環境から遠ざけられて久しいが、都会には都会なりの新たな野性が形成されてゐることだらうし、万一其れがデジタルであったとしても、生の原始の片鱗を例へ幻聴としてでも聴く能力はきっと喚起されるであらう。勿論これらの音は、心で聴いてもよい。
デジタル変換された音の世界はどんなに緻密に構築されてゐても、謂はば数センチ角の濃淡さまざまなる無数のキューブが空間に充填されてゐるやうなもので、其の立方体の積み方の乱れた部分に身を割り込ませていけばいくほど、四捨五入された断面に露出した立方体の頂点が刺々しく内耳に突き刺さるやうな感覚がある。
一方レコード盤の場合、埃に由来するパチパチノイズに埋もれつつも、表面こそ時折研磨不十分な部分が残されてはゐるが、なにか有機的な曲線に満ちたオブジェや粘膜に接触する感じがする。
今更アナログを賛美して声高らかに原始回帰を唱へるつもりは毛頭無いが、曲線の快感を音で体感できるなら、其れに越したことは無いだらう。
 
てうことで、最近調達したアルバムをちょこっと紹介。

 
  

プレイズ・バッハ

プレイズ・バッハ

De Profunis

De Profunis

Maktub

Maktub

http://www.amazon.co.uk/Busoni-Piano-Concerto-Fantasia-Contrappuntistica/dp/B001LMCYP0
SHOSTAKOVICH Concertos Brilliant 7620 [TB]: Classical CD Reviews - March 2007 MusicWeb-International
此の5件のCDのうち現在1枚でも持ってゐる人が居れば、我輩と音楽的嗜好が少なくとも62%は類似してゐる可能性が有る。かといって話が合うかだうかは別の話だが。
個々のアルバムの紹介は追々することにしておかう。なにせ、「明日出来ることは今日しない」ことがモットーの怠慢的偉人ですから、これくらいのことは晩飯後の入浴後の就寝後・・・(-_-)zzz