まつりまつられまつろはぬものどもは

いはずもがな

確かに、秋祭りの季節ではあるが・・・
たまに行くガソリンスタンドに「タイヤ祭り」てう幟が立ち始めた。
確か先月は「洗車祭り」だったし、前に「オイル祭り」てう幟を見たこともある。
給油する予定は無かったが、愛想の良い二代目の若大将の姿が見えたので立ち寄ってみた。そして、我ながら意地悪な質問をしてやったのだ。
「若大将、えらく景気良く幟やら旗をぎょーさん立てとるね。今日はタイヤ祭りてうことは、夜になると夜店が出たり、奥の方からタイヤ御輿などが担ぎ出されてくるのかや?」
「いや〜、さういふ祭りぢやーないんで、御神輿なんざぁ出ませんのでやんす」
「ぢゃー聞くが、毎月あれこれ催される祭りとは、如何なる意味ぞや?」
「いや〜旦那、一応幟や旗には祭りと書いてあるんですけどね、わっしょいわっしょいの祭りてう意味ぢゃーなくって、早い話がセールのキャンペーンなんでさぁ」
「セールのキャンペーン? 横文字ばっかでよーわからんが、つまるところが安売りの作戦てうことかえ?」
「まーそんなとこでさぁね、てへへへっ、、、」
 
ここで問題になるのが「祭り」の意味である。
一般にお祭りと聞けば、神社の参道に出店が出て、御輿や山車が引き回され、笛や太鼓や鉦の音が賑やかで華やかで、拝殿や本殿の内部では娑婆の喧噪を余所に、粛々と神事が執り行われるハレの日のことを連想して仕舞ふのだが、今やセールのキャンペーンも祭りの一環であるとの偏向拡大解釈が主流になりつつあるとすれば、それはそれで奇妙なことだ。此の種の「まつり」は、少なくとも「祀り」ではないから矢張り「祭り」の拡大解釈範疇になるのだらう。
とまれ広く浅く、世間様を改めて漫然と眺めてみれば、牛丼屋は「牛丼祭り」を開催しておるし、焼き肉屋には「カルビ祭り」の幟が棚引ゐてゐる。一方大型家電店でも「掃除機祭り」が開催されてゐるし、隣の自治体では市民による「リサイクルまつり」が、商店街では「スタンプ倍増祭り」が、そして彼の国では将軍様による「大将まつり」が開催されてゐるのだ。
 

 
日本語の「まつり」の語源と原義
 
「まつり」という言葉は「祀る」の名詞形で、本来は神を祀ること、またはその儀式を指すものである。この意味では、個人がそういった儀式に参加することも「まつり」であり、現在でも地鎮祭、祈願祭などの祭がそれにあたる。 日本は古代において、祭祀を司る者と政治を司る者が一致した祭政一致の体制であったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼ぶ。 また、祭祀の際には、神霊に対して供物や行為等、様々なものが奉げられ、儀式が行われる。その規模が大きく、地域を挙げて行われているような行事の全体を指して「祭」と呼ぶこともある。しかし宗教への関心の薄れなどから、祭祀に伴う賑やかな行事の方のみについて「祭」と認識される場合もあり、元から祭祀と関係なく行われる賑やかな催事、イベントについて「祭」と称されることもある。
 
「まつり」や「まつる」という古語が先であり、その後、漢字の流入により「祭り」・「奉り」・「祀り」・「政り」・「纏り」などの文字が充てられた。現在は「祭りと祀り」が同義で「祀りと奉り」が同義ともいわれるが、漢字の由来とともに意味も分かれているので下記に記す。
 
「祀り」は、神・尊(みこと)に祈ること、またはその儀式を指すものである。これは祀りが、祈りに通じることから神職やそれに順ずる者(福男・福娘や弓矢の神事の矢取り)などが行う「祈祷」や「神との交信の結果としての占い」などであり、いわゆる「神社神道」の本質としての祀りでもある。この祀りは神楽(かぐら)などの巫女の舞や太神楽などの曲芸や獅子舞などであり、広く親しまれるものとして恵比寿講などがある。その起源は古神道などの日本の民間信仰にもあり、古くは神和ぎ(かんなぎ)といい「そこに宿る魂や命が、荒ぶる神にならぬよう」にと祈ることであり、それらが、道祖神や地蔵や祠や塚や供養塔としての建立や、手を合わせ日々の感謝を祈ることであり、また神社神道の神社にて祈願祈念することも同様である。
 
「祭り」は命・魂・霊・御霊(みたま)を慰めるもの(慰霊)である。「祭」は漢字の意味において中華文明圏では、葬儀のことであり、現在の日本と中国では祭りは正反対の意味と捉えられているが、慰霊という点に着眼すれば本質的な部分では同じ意味でもある。古神道の本質の一つでもある先祖崇拝が、仏教と習合(神仏習合)して現在に伝わるものとして、お盆(純粋な仏教行事としては釈迦を奉る盂蘭盆があり、同時期におこなわれる)があり、辞書の説明では先祖崇拝の祭りと記載されている。鯨祭りといわれる祭りが、日本各地の津々浦々で行われているが、それらは、鯨突き(捕鯨)によって命を落としたクジラを慰霊するための祭りである。
 
「奉り」は、奉る(たてまつる)とも読み。献上や召し上げる・上に見るなどの意味もあり、一般的な捉え方として、日本神話の人格神(人の肖像と人と同じような心を持つ日本創世の神々)や朝廷や公家に対する行為をさし、これは、神社神道の賽神の多くが人格神でもあるが、皇室神道に本質がある「尊(みこと)」に対する謙譲の精神を内包した「まつり」である。その起源は、自然崇拝である古神道にまで遡り、日本神話の海幸彦と山幸彦にあるように釣針(古くは銛も釣針も一つの概念であった)や弓矢は、幸(さち)といい神に供物(海の幸山の幸)を「奉げる」神聖な漁り(いさり)・狩り(かり)の得物(えもの・道具や神聖な武器)であった。古くから漁師や猟師は、獲物(えもの)を獲る(える)と神々の取り分として、大地や海にその収穫の一部を還した。このような行いは、漁師や猟師だけに限らず、その他の農林水産に係わる生業(なりわい)から、現在の醸造や酒造など職業としての神事や、各地域の「おまつり」にもあり、地鎮祭上棟式でも御神酒(おみき)や御米(おこめ)が大地に還される。
 
「政り」については、日本は古代からの信仰や社会である、いわゆる古神道おいて、祭祀を司る者(まつり)と政治を司る者(まつり)は、同じ意味であり、この二つの「まつり」が一致した祭政一致といわれるものであったため、政治のことを政(まつりごと)とも呼んだ。古くは卑弥呼なども祭礼を司る巫女や祈祷師であり、祈祷や占いによって執政したといわれ、平安時代には神職道教の陰陽五行思想を取り込み陰陽道陰陽師という思想と役職を得て官僚として大きな勢力を持ち執政した。またこうした政と祭りに一致は中央政府に限らず、地方や町や集落でも、その年の吉凶を占う祭りや、普請としての祭りが行われ、「自治としての政」に対し資金調達や、吉凶の結果による社会基盤の実施の時期の決定や執政の指針とした。
 
* 日本の祭について英語で紹介する場合「フェスティバル」・「リチュアル」・「セレモニー」が、それぞれ内容に応じて訳語として用いられる。
 

 

 
 

 
 

 
 

世襲の愚かさと無意味さと虚しさを、余りにも分かり易く如実に物語る此の図式。
裸の大将たちによる茶番劇とはまさに此のことにて候。嗚呼人民憐れなるかな・・・