待つ身に辛き置き炬燵 事問ひたるは思案橋


 
此の場に及んでも暑さ、なかなか冷めず。
ただ日暮れ時間の早まりと法師蝉の鳴き声に、遙か彼方より忍び寄る秋の気配を読む也。
 
さて、ここ数日、或る分野の研究者を目指すてう若者とメールのやりとり。
初めにいくつかの基本的な問ひかけがあったので、各項目それぞれについて400字程度に内容を要約して送ってやった。
翌日反応らしきメールあって(2行)、複数項目に対する回答の一部分に対する再質問。もっと詳しい説明を必要としてゐるのだらうと勝手に解釈し、今度は1000字近くの文章に纏めて送信(参考文献リスト付き)。
すると数時間後に、その解説に対する質問メール来(1行)たので、それについては直ちに回答。(数百字)
すると数分後にメール来るも、やはり1行メールで、「○○○と言ふのは△▲△なのでせうか?」
「いや、さういふ単純な意味だけではなくて・・・(以下略)」(数百字)
「■□■とは何ですか?」(1行)
「それは一般的には○△□といふ意味で使はれることが多いが、此の場合は・・・(以下略)」(数百字)
「○△□といふ意味でも使ひますか?」(1行)
「あのね、、、、」
 
たわけらしくなって*1、彼とのやりとりはここで中止。
別に文字数の多寡が内容の濃淡に比例するとは限らないが、一応対面や電話ではなく文章で対話をしてゐるわけだから、極小部分だけを取り上げた所謂1行メールの反応と、それなりの簡易な理論構築を背景にした応答文のやりとりでは、不公平というか何というか、おかしくはないかい?
恐らく今の若者達は、携帯でのメール交換が日常だらうから*2、小さな画面に打ち込まれる1行文にも何ら罪悪感も疑問も無いのだらうが、手紙に類する書き言葉での対話と理解する身にとっては、少なくとも起承転結とは言はないまでも、序破急それなりの完結性を持った文章としての回答が当然のことと思ふが故、恰も口語の、しかも思ひついたやうな短文の応答ではそもそも対話(または会話、時に討論)などに値せずと思ふが如何。*3
 
今更のやうに、コミュニケーションとは何ぞや? などと熱帯夜に事問ふもまたあはれなりけり。
 

 

*1:「たーけ」と読んでも良い。「たわけらしい」の意味がわからん人は、「たわけ」を「アホ」だの「バカ」だのと置き換へて読むが宜しい。

*2:事実彼はPCではなく、携帯電話のメール機能を使ってやりとりを行ってゐたやうだ。

*3:此の程度のことで癇癪を起こしてゐたのでは、いまどきの大学で教鞭など取れないだらうなー・・・