東風偏重

今宵は再び蛍狩り

朝から東風吹き渡り、大気中には湿気増ゑた様子。勿論天気は下り坂。
ここのところ何かしら雑用多く、少し翻弄され気味。
(-_-)
                

さて、チベットの南、シャキャムニの生誕地であるネパールから王制が駆逐され、連邦共和制が採択された様子。
現代政治学的には1951年の王政復古以来の終焉と言ふことになるが、封建的且つ象徴的王制期を含めれば王制自体は240年間続いてきたことになるから、確かに大変革だらう。
                

                     
事実上の絶対君主制憲法上は立憲君主制)から暫定的に象徴国王制へ移行。国王は国家元首としての地位を失い、当面は首相がその地位に着くこととなる。国号は「ネパール王国」から「ネパール国」に変更され、在外公館の表記からも「王国」が削除された。王室を讃える国歌を廃止し、王室と結びついたヒンドゥー教は国教としての地位を失った。国王は、国軍統帥権を失い、政府も「国王陛下のネパール政府」から「ネパール政府」に変更された。
これを受け、与党ネパール会議派は他の諸派から提案されていた王制廃止に、この議会で賛成する事を表明した。更に、暫定憲法に、ネパールで最大の政治勢力であるネパール共産党毛沢東主義派マオイスト)が暫定政府復帰の条件としていた『王制廃止』と『連邦共和制』が盛り込まれることが決まり、ネパールの国家形態が王制から共和制へ移行することが事実上固まった。
2008年4月10日に投開票された制憲議会選挙(小選挙区240、比例代表335)で、マオイストが220議席小選挙区120、比例代表100)を獲得して第1党となり、ネパール会議派が110議席小選挙区37、比例代表73)、統一共産党が103(小選挙区33、比例代表70)と王政廃止派の政党が多数を占め、王政支持派政党は少数に留まった。2008年5月28日に招集された制憲議会は初会合では、王制を廃止し連邦民主共和制への移行が宣言した。現行の首相制を継続するか、初の大統領制を採用するかは現在議論されている。
                       

                       
我輩は国際政治に疎ひのでマオイストたちの思ひ描く政治的理想像がいまひとつよくわからないが、自由の国ネパールが今後どのやうに変化していくのか、興味深いところだ。其の動向はチベット人たちにも多かれ少なかれ、影響を与へることは確かだらうから。
(-_-)
                   

今天の謎は雁合遺跡出土の「土塊」。
集石土坑のヨンビョンから纏まって出土したものと、被熱礫に混ざって出土したものがあるが、手捏ねして造形したやうなものではなく、土坑縁辺を補修するための素材としての粘土(少量の繊維質を含む)が被熱したものであるやうな、微妙な遺物である。
大なる方は、げんこつ大で砂岩の塊が被熱したものとも、砂質多い粘土塊が被熱したものとも見へるが、注目すべきは片面が発泡状態に変化して仕舞ってゐるところ。
粘土にせよ砂岩にせよ、いったいどのやうな状況になればこんな発泡を引き起こすのだらう? 鉱滓かバーミキュライトの生成原理に共通するものなのか、先に検出した円形集石土坑の壁面の一部も、このやうに発泡状態を呈してゐた。
斯くなる上は、実験で再現する手法も用ひ、解明していく必要があるな・・・
                   
 
謎の焼土塊(左)と、謎の発泡体(右)
                  
                    
                     

(-_-) それにしても、要請も一足飛びにここまでくると、何らかの意図を勘繰って仕舞ふのも致し方ないのではないでせうか。
                     
自衛隊機派遣打診で、対日重視の姿勢示す
2008.5.28 20:50(産経ニュース)
【北京=野口東秀】四川大地震自衛隊機派遣をも打診した中国政府の決断は、日中関係に大きな転換をもたらす可能性を秘めている。胡錦濤国家主席の訪日に続き、日本の国際緊急援助隊の救助活動などにより対日感情が好転しているこの機に、自衛隊機派遣で、軍など対日強硬派を抑え対日重視の姿勢を示す狙いもありそうだ。
中国では、一党独裁体制を敷く中国共産党の成り立ち自体が抗日戦争にあり、旧日本軍の残虐さを含む抗日教育が強化され、「反日感情」と「愛国主義」を生んできた。「日の丸」も、過去の「対中侵略」の歴史をほうふつさせる象徴となってきた。
しかし、先の胡主席の訪日は「暖春の旅」と称された。その後に発生した四川大地震では、日本の援助隊が外国としては一番乗りで被災地に到着。現地で「生命をかけてひたむきに努力」(中国紙)した事実は中国メディアに大きく報じられ、医療隊の活動とともに、高く評価され感謝されている。
自衛隊機派遣の打診はこれに続くものだが、中国側は「救援活動で輸送機が不足し窮しているわけではない」(軍関係者)という。また、「反日感情」や体面から、人民解放軍には反対論があるとみられる。
日本の救助隊は、山奥の生存者が極めて低い場所での活動を指定され、十分に能力を発揮できなかったが、その裏には災害現場を管轄する軍の意向が働いていたとの指摘がある。被災現場で兵士の一部は、日本の救助隊に対する批判と反発を口にしていた。救助隊に対してすらそうした状況で、自衛隊ともなると、軍を含む対日強硬派の反発は容易に想像できる。
にもかかわらず自衛隊機の派遣を打診したのは、(1)現実の問題としてテントなどの物資を大量に必要としている(2)国際協調重視の姿勢を国内外に示す(3)国民の対日感情をさらに好転させる効果を生む−という理由からだろう。とりわけ日中の良好な関係構築は胡主席にとり、なお影響力をもつ対日強硬派江沢民国家主席の存在を考えれば、政権基盤の強化につながる。
被災現場の視察などを報じる国営テレビの宣伝もあって、胡主席温家宝首相の株が急上昇。一方、「党中央人事などへの発言力を誇示した江沢民氏の影はかすみがちだ」(中国筋)との指摘もあるなかで、自衛隊機に“政治的な効果”も期待しているようだ。
                  
                   
(-_-) 一方こちらは『統一日報』の現代チベット史を扱った連載記事。極めて冷静に、現在に至るまでの歴史的背景を分析しており、好感が持てる。
                    
               
「党幹部はチベットを去れ」 胡耀邦
少数民族問題直視したただ一人の総書記
(「チベットで何が 祈りと抵抗と 最終回」)(『統一日報』5月28日記事より)
             
少数民族政策の過酷な現実に立ち向かった人がいる。胡耀邦だった。
1980年2月、党総書記に就いた胡耀邦は、その3カ月後にはチベットに入った。現地を目の当たりにした彼は、その惨状に呆然としたという。漢族入植政策によるチベット文化の破壊と、チベット人の貧窮する姿が眼前にあった。胡耀邦は、その日夜、宿所の窓からポタラ宮の方を眺め瞑目したという。
「人知れずチベットに謝罪したのでしょう。共産主義者としての矜持がそうさせたのか。胡耀邦自身の良心がそうさせたのか。おそらく両方でしょう」
95年、吉林省で出会ったある放送局の記者が言った。彼女は、「胡耀邦は延辺に対してもそうだった」と語った。
文革のさなか、江青から「民族主義者」と批判され非業の死を遂げた延辺朝鮮族自治州主席・朱徳海にまつわる話だった。文革後、朝鮮族朱徳海の死を悼み、延辺市内の公園に記念碑を建てたときのことだ。
文革の嵐はやんでいたというのに、党は記念碑を取り壊しました。朱徳海の名誉を回復したのは胡耀邦でした。今でもはっきりと覚えています。84年5月12日でした。胡耀邦延辺大学を視察した際、朱徳海記念館を建設せよと吉林省党幹部たちに命じたのです。彼は記念碑が破壊されたことを朝鮮族に謝罪し、現地党幹部らに対しては烈火のごとく怒ったと言います」
チベットに赴いた胡耀邦が5月29日に共産党幹部らを集めて行った演説が残っている。
「我々の党がチベットの人民の期待を裏切ったのだ」と始まるその演説は、並み居る幹部たちを青ざめさせたという。
チベット人民の生活に明らかな向上が見られないことに、我々は責任を負うべきだ。…まず、自治権の完全な行使が認められるべきだということだ。自治権とは自己決定の権利である。その自治権がなければ、現地の状況に合った政策を実施することはできない。生産工作隊が自己決定の権利を有していることを、我々は今しがた確認したではないか。われわれは皆、自己決定の権利を持っている。われわれは皆、個人的な趣味に耽る権利を有しているのだ」
愕然とうなだれる党幹部たちに、胡耀邦はさらに、「多数の党幹部はチベットから引き上げよ」と促した。
 少数民族地域に「自治権の完全なる行使」を認める法は胡耀邦の手によって1984年5月に成立した。胡耀邦が真っ先に打った手は、チベット自治区書記に、チベット系のイ族(涼山彝)伍華精を任命したことだった。伍華精はチベットの宗教と自由を理解し重視した。「ラマ書記」と人々から呼ばれた。
周知のように、胡耀邦は1987年1月、総書記を解任される。政治的致命傷を負ったことの一つに「少数民族政策の誤り」があったとされた。
胡耀邦の失脚でチベットの時間の針は激しく逆回りした。胡耀邦解任に怒る僧侶たちの漢民族支配への抗議行動が波状的に起こる中、伍華精もまた更迭され、替わって書記に就いた胡錦濤が、89年の「ラサ暴動」へと発展する抗議行動を全力で鎮圧し、これを功績として総書記、国家主席の地位へと上りつめていく。
チベットの人々に限らず、多くの少数民族は今も、事あるごとに胡耀邦を親しみと敬愛をこめ思い出す。「彼の言葉と涙にだけはうそはなかった」と。
中国の指導者で少数民族問題を直視したのは胡耀邦をおいてほかにいない。
今も、12億人の漢族の中で、チベットへの同情の声をあげる人はほとんどない。伝えられる限りで言えば、中国政府に抗議を表明したのは評論家の劉暁波や作家の王力ら30人ほどだけだ。
89年のラサ暴動直後にチベットを取材したジャーナリストの竹内正右は次のように書いた。
「ラサの寺院内を手をつないで見学する兵士たちはあの文革下、先輩の兵士たちがチベットの寺院や仏像を破壊したことなど微塵も知らぬ気である。文革後に生まれた若い人民軍兵士たちにとって、このチベットは生まれた時から自分たちのもの、としか映らないのかも知れない」
竹内が毎日新聞(90年6月30日)に寄せたこの短いルポは、おそらくそれまでのどの記事より多くの人の目を惹いた。末文にはこう書かれた。
民主化運動を担ってきた中国人学生の口からは、チベット独立擁護の積極的な言葉は聴けなかった。中国の矛盾は衝けてもチベット人の痛みは分からない、と言うのだろうか。中国人青年に広い心を期待する私が悠長なのか」
民主化を目指したはずの中国人学生の多くが、チベット騒乱のさなか、「民主化は愛国的行動で、チベット支持は祖国分裂行為」だと叫んだ。このことこそが中国の危機的状況なのかもしれない。問われているのはチベット人の「暴動」ではないことは確かだ。
中国政府はダライ・ラマとの対話に応じるという。北京五輪を無事乗り切るための方便なのか。中国の意図は五輪閉幕後に分かるはずだ。(了) (編集委員 梁基述)