光跡探査

木イチゴ収穫

漆黒の闇夜に、三つ四つ、五つ六つと蛍が金色の糸を引くやうに、柔らかな光跡を残して浮遊してゐた。
田んぼではカエルたちの鳴き声が賑やかだが、木々のまにまに田んぼを見下ろす此の沢沿ひの小さな淵には、ささやかなせせらぎの音を背景にして、音無く蛍が舞ふ。其の滑らかな光の円運動に包み込まれ、夢と現の境界を一人彷徨ふ。
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さて、木星表面に発生した第三の目に関し、昨天は意図的に神秘主義的なことを書き連ねたのだが、早速或るご意見番からメールを頂戴した。曰く、「考古学的な記事も書いておられるのですから、あまり怪しげなことは書かれない方がよろしいかと・・・」云々。
今回敢へて本文中で返答させていただきますが、改めて言ふまでもなく本稿の主旨は表題の如し。極めて個人的な Days of the day after day に関するうたかたで御座ゐまして、決して遺跡の調査報告書でもなければ読書感想文でも御座ゐません。従って内容自由に日々感じるまま、気の向くままにつらつら漫然(時折超然)と書き連ねておりますが故、此の種の御節介無用にて候。
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「下に有るものは上に有るものの如く、上に有るものは下に有るものの如し」
                    
これは所謂ヘルメス文書(エメラルド・タブレット)に記された文章中、もっとも有名な言葉の一つであるが、天文の秩序が地上の秩序と照応することによって、全ての現象を理解することが出来るてうことを表現したものだ。
                    

                    
伝説によると、この碑文はヘルメス神自身がエメラルドの板に刻んだもので、ギザ(ギゼー)の大ピラミッドの内部にあったヘルメス・トリスメギストスの墓から、アブラハムの妻サラあるいはテュアナのアポロニウスによって発見されたものであるという。
あるいは、洞窟の中でエメラルドの板に彫りこまれたのをアレキサンダー大王が発見したともいう。
                        

                     
発見に纏はる真偽の程は別にして、古代の叡智はさまざまな形態や方法で現代にまで伝へられてゐるもので、其の典型がエジプトのピラミッドに秘められた数学的(幾何学的)数値だらう。
言語は、バベルの塔の出現を待つまでもなく、極めて可塑性の高い道具であり、変化し易い現象である。言の葉に宿る言霊の普遍性を信じ、文字言語を用ひて未来に言霊の精神をも送信しやうとする試みは、人類の文明史上幾度となく繰り返されてきた。しかし、其の時々の研究者達は、先づ滅び去った言語体系の復元から開始しなければならないてうジレンマが常にあった。
日本の縄文遺跡を例にとってみると、縄文人達の活動の痕跡である遺跡の解釈ひとつとってみても、多くの学者が現代人の視点のみを用ひて行ってゐることに気付く。勿論、特殊な霊媒体質でもない限り、縄文人達の心性と完全同期した上で研究を進めることは不可能であらうが、例へば日常の行動を大きく支配する太陽と月の運行を知らない者が、縄文集落の構造や墓地の解釈など出来るはずがないのだ。
嘗て小林達夫氏は、秋田県大湯環状列石夏至観測をも行ってゐた天文的な遺跡であることを看破して発表した川口重一氏の説に対し、「考古学からの反応は冷ややかで、時には積極的な反対意見さえも出されたりした」と指摘し、更には縄文人の最もよき理解者となるべき研究者が、さしたる検討も抜きにして、ついつい縄文人知的水準を低く見下してきたせいである」と批判したことがある。
この謂ひには全く賛成で、地表面に刻まれたごくごく繊細で脆弱な現象に過ぎない遺跡を、其の大地に伏して掘り起こす役を担った者たちは、そこらへんの占星術師よりも天文地理を知ってゐる必要があるし、大地に隠された龍脈を見抜くだけの能力を持った風水先生である必要があるのだと思ふが、如何。
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