黄泉の新緑

目にも優しきみどり哉

青葉の頃になりにけるかも。
光り輝く青葉緑葉の織り成す風景は、秋の錦繍の綾錦にも匹敵するほどの豪勢さ。しかも、秋には無い若々しさや瑞々しさに溢れ、大気中に漲る其の息吹とともに肺臓や鼻腔を満たし、目にも優しく五感を擽る。
新緑は人心に希望と活力を与へる。人間様は大自然様から恩恵も厄災も享受する一方で、歌を詠み詩を寄せ絵を描くことくらいしか返礼の術を知らない。
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さて、新美古墳の周囲を調査するてうので、見学に。
汐川中流域の段丘突出部を利用した中規模の円墳で、石室が完存してゐる。過去の調査では石室全長7.8mとあるが、既に羨道部分は耕作などで失はれて仕舞ったやうで、今は奥行き5mほどの玄室が残るのみである。
幸ひ玄室内部は天井石も含めて完損しており、最大幅は2.3m、玄門近くと奥壁で2mと、石室中央が僅かに膨らむプランである。
石組みは両袖持ち送りで強固に組まれ、下二段ほどは横長の大きめの石を寝せ、上部は枕木の小口を見せるやうな組み方で天井に至る。石室の高さはほぼ2.5mほどで、玄門部も含めると天井石は7枚であり、露出した天井石の幅は1m。
鏡石は石灰岩2枚で構成されており、両者とも高さが1.7mほどしかないため、天井まで残りの高さは石組み(石詰み)で構成されてゐる。
石室の奥、鏡石前には平板石4枚で区画された奥津城(1号棺)が設けられ、奥に向かって左壁側にも同様の区画(2号棺)が存在する模様。床面は一面に海岸から拾ってきた丸石が敷かれ、清浄な空間が再現されてゐる。過去の調査では多くの須恵器や鉄器残欠などを検出しており、1号棺と2号棺の文物に多少の時期差が認められるものの、所属時期は概ね6世紀後半であらうとのこと。
                      
 
              
 
                   
このやうな完存石室の保存は重要だが、墳丘盛り土背面は既に土取りで失はれており、このまま放置すればドルメン、または石舞台化することは明らかだらう。しかし、いずれにせよ私有地内に存在する遺跡でもあり、市としてもあまり大々的な関与は出来ないとのこと。
黄泉の国の神秘は既に其の大半が失はれて仕舞ったものの、古の人々の構築物は永く後世に遺して行きたいものだとしみじみ・・
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