語り継がないてうこと

檸檬草、生ひ茂る

先の戦争について、その実体を殆ど知らされた記憶が無い。戦争当事者であった祖父からも、戦争体験者であった両親たちからも、我輩の日常接してゐたさまざまな人々からも、戦争についての話を聞いた覚へが無い。勿論、中学校や高校で、近代史・現代史としての戦争については学んだことがあるが、歴史年表の末端近くに居並ぶ項目の一部分としてに過ぎない。
中学生の頃、祖父の書棚を勝手に探り、何冊かの黒いアルバムを持ち出さうとしたことがあった。直ちに祖父に見つかり、可成り激しく怒られたことを、妙な違和感を以て覚へてゐた。高校になって祖父が亡くなり、何ヶ月か経って一斉に遺品整理を行った時、その黒いアルバムを発見した。開いてみるとそれは、祖父の若かりし頃、衛生兵として大陸に出兵した頃の写真が集められたアルバムであった。大半は自分や部隊の友人、軍上層部の肖像写真や大陸の風俗や建築物の写真だったが、最後の数ページには斬首された中国人達の写真が集められてゐた。中学生の孫に見せたくなかったもの、その正体がこの残酷な写真だったのか何だったのかは、今となっては不明だが、生前の祖父の口から大陸や戦争のことが語られたことは遂に無かったのだ。
それらの記録に因れば、祖父の上陸地点は塘沽即ち天津であり、その租界を基点にして満洲国の各地に赴ひてゐたやうである。アルバムと同時に発見された様々な大陸資料、とりわけ満洲国当時の地図は保存も良く、その後3回に亘って巡礼することになる旧満洲国地域紀行の重要な基本資料となった。
被爆体験でさへ、営々朗々と語り継がれて来たとは言へない。国民性と一言で言ってしまへばそれまでのことだが、わが国の現代は、余りにも語り継がれる事の殆ど無かった脆弱で液状化した近代の上に構築されてしまった摩天楼の烏合だ。「知らない」と言って済ませることは簡単で安易な方法だが、学ばないことは犯罪だ。しかし、体験者(体験談)を通じて学ぶことの出来なかったもどかしさは、何処までも着いて回る。そして、東亜細亜諸国の、常軌を逸した被害者意識に対して、日本人総体の余りの淡泊さ。原子爆弾一つや二つで、ここまで忠実なポチ国家が出来上がるのなら、他の聞き分けのない国にも落としてやらうかしらむと思ふのは、メリケン様ならずとも当然のことだらう。況や偉大な将軍様をや・・・
(-_-)偉大ねー・・・
可能な限り学び、周辺諸国からの理不尽な諸要求は相手にしない。これに尽きる。
(-_-)
今夕は霧とも靄ともつかぬ煙幕の彼方に沈む夕日だったが、無数のトンボを追って飛び回る無数の燕子、潮騒を背景放射にして、宇宙の晴れ上がりの直前の原子の運動を眺める心持ち。
今宵もまた、熱帯夜?

「在満少国民」の20世紀―平和と人権の語り部として 時空の起源に迫る宇宙論 (別冊日経サイエンス 149)