誰もが知ってゐる未知の話

世界を語る目を持つ少年

誰も知らないことについて書くことは、簡単だ。誰も知らないのだからウソを指摘されることもないし、誰も知らないのだから全てを書かなくても良いし、誰も知らないのだから誰に知らせなくても良いのだ。
現実に起きた事件を素材にしてゐるのだが、映画の世界は現実を越えたり逸脱したり、虚ろに彷徨ひながらも平行世界の物語として同時に存在し始めてゐる。これは我々のすぐ隣で起きてゐる現在進行形の故事でありまた、どこか遠い都会の出来事でもあるのだ。母親役のユウは余りにもはまり役だし、主役の柳楽優弥は不自然なまでに自然だ。非日常的な撮影現場にさういふ空気を創り出した是枝監督の力量なのだらうか、この作品とごく限られた情報しか持ち合わせていないので判断できないが、良い関係と空気を築いてゐるのだらうな、と思った。時にはカメラの存在を全く意識していない子供らの表情を見ると、やはりかういふことも監督の技量の範疇なのだらうな、などと今更のやうに思ふのだ。
悲しく残酷な事件だ。でも、パチンコ屋の駐車場の車の中で子どもが死んでいく時代だ。中学生が小学生を立体駐車場から突き落とす時代だ。大学生が千羽鶴に火を付ける時代だ。子育てを放棄した母親など、身近にいくらでもゐるに違いない。みんな知らないだけのことなのだ。知らないのは僕ばかりではなく、「誰も知らない」だけのことなのだ。
伝統的な共同体の崩壊だの、大家族制度の終焉だの、核家族化の暗黒面だの、本能的愛情の枯渇だの何だの、はたまた離婚率の増加、長引く不況などなど、いくらでもどのやうにでもこの物語を社会的背景に由来付けることができるが、それがどうしたてうのだ? そもそも誰も知らないことなのだ、僕には関わりのないことなのだ。現実の事件をもとにしてゐるてうことだけれど、僕には関係ないことなのだ。
いみじくも友人は言ふ。「誰も知らない」と「華氏911」を同時に観られて、日本人は本当に幸せだと思ふ、と。然り。せめて、そんな幸せが幸せとして感じられるやうな自分で居たい。更には、ちちろ虫や鈴虫の鳴き声にものの憐れを感じる自分で居たいな。